1971 (昭和46) スモン薬害訴訟原告代理人

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コーポレートガバナンスの原点となった50年前の事件

1971年、今から50年近く前に起きた薬害訴訟事件の、第二次訴訟原告弁護団の一員となった久保利が、何よりも怒りに震えたのは、患者の気持ちを置き去りにした企業側や国の態度だった。調査報告書を開示する方法すらなくそのまま秘匿し、被告側に対する証拠提出命令もなかなか命じない国。組織防衛の為手段を選ばない企業。どちらも、肉体に起きた様々な症状に苦しみ風評被害と闘ってきた傷だらけの患者に対して、誠意のかけらも見られなかった。この経験から、企業側の弁護士になるにしても、その企業が社会から評価されるように内部から変えて行くことを一生の仕事にしようと、強く決めた。

太陽よ沈むな!!

製薬会社の訴訟事件で、原告側(訴えた側)弁護団の一員となったのは、久保利が弁護士になって二年目のことだった。原告の数7500名以上、賠償額1900億という、空前の規模となったこの訴訟は、コーポレートガバナンスやコンプライアンスを強固に主張する久保利の原点ともなった裁判だ。

下肢の感覚がなくなる、視力がなくなる、歩けなくなる者もいる、原因不明の為奇病と恐れられ、10年以上に渡り苦しみ、加えて風評被害と闘ってきた患者たちにとって、やっとの思いでたどり着いた訴訟だったが、かなりの数の人に整腸剤として使用されていたキノホルムが原因と判明し、当時の厚生省が使用と販売を中止したにも関わらず、簡単に交渉は進まなかった。

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久保利は因果関係班に所属し、厚生省がまとめた調査報告書や医療文献に取り組んだが、この作業は難渋を極めた。なぜなら日本には、原告が証拠を収集しようにも、厚生省や製薬会社への開示請求の方法がなかったのだ。

しかし、情報公開法を持つアメリカのFDA(アメリカ食品医療品局)が、海外からの開示請求に応じてくれた為、数多くの証拠を集めることができた。結果、勝利判決とその後の有利な和解につながったのだ。

当時、日本の裁判が国民の権利確保には役に立たず、信頼も充分に得られていないと感じていた久保利は、国が証拠価値のある書類を秘匿し、相手方に対し証拠提出命令を素早く命じていないこの現実こそ、その原因ではないかと感じ、怒りを大きくした。

1978年8月3日は、猛暑だった。判決の結果により、執行官を携えた久保利は、田辺製薬東京工場に向かった。正門にたどり着くと、そこには頑丈な鉄条網が巡らされている。しかし、負けてはいられない。分け入り入っていくと、担当者が『金なら用意してある』と会計課に誘導し、ダンボ―ル数箱を差し出してきた。

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1億 7000万円入っているという段ボールの箱を開けてみると、何ということだ。帯封がはがされ、バラバラのまま雑然と1万円札が放り込んである。

本当に1億7000万入っているのか、全ての箱を開いて数えなければならないが、手で数えていたのでは執行可能な日没時間を過ぎてしまうではないか。この時間稼ぎの間に、裁判所で執行停止決定を取ろうとしている。執行を免れようとしていることは明らかだった。

近くにある銀行に行き機械でカウントしてもらえないか、久保利は執行官に迫った。さすがに頭にきていた執行官は、直ちに裁判所と銀行に連絡し、同意を取り付けてくれた。

段ボール箱をすべて車に積み込み、パトカーの誘導で銀行に向かう。この時ほど「太陽よ沈むな」と祈ったことはないと、久保利はこの時のことを話している。

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銀行にすべりこむと、札勘定機によるカウントは迅速で、あっという間に数えることができた。

この事件は久保利に、日本企業への不信感を植え付けることとなる。この状況を前にして尚、ここまでしても金を原告に渡したくないという判断を、一部上場の製薬会社がしたことの冷酷さに対し、久保利は、腹の底から怒ったのだ。

患者の方々のこれまでの苦痛に対する慰謝料であり、今後生き続けるために必要な金銭でさえ、執行停止によって免れようという人たちが、日本の企業にはいるのだというこの時の怒りが、2020年弁護士生活50年を迎える久保利が主張し続けてきた、コーポレートガバナンスやコンプライアンスの原点となっている。