1969 (昭和44) 検察取り調べ修習拒否

アフリカから帰国した翌年の1968年、久保利は1年遅れで司法研修所に入所する。

当時、修習期間は2年であった。(現在は1年である)

東京・紀尾井町の司法研修所に約500人の司法修習生が集められ、前期4ヶ月、後期4ヶ月の合同修習を受ける。その間の1年4ヶ月は、全国各地に分散して、民事裁判、刑事裁判、検察、弁護の実務修習をそれぞれの場所で受けた。

検察修習は2点あり、検察官の後ろで公判傍聴をすることと、被疑者の取り調べを行うことであった。取り調べを修習生自らが行い、調書を作成することが慣例だったのだ。問題はそこで起きた。

法律では司法修習生が単独で被疑者を取り調べることは認められていない。取り調べられる被疑者にとっては、あらためて法律で認められた検察官の取り調べを受ける必要があり、司法修習生の練習台になって取り調べを受けることは、苦役以外の何物でもない。

久保利の持ち前の反骨精神が頭をもたげる。検事ならともかく、権限もない修習生が被疑者の人権を侵害していいのかと思った。

天秤

 

久保利は、取り調べ修習を拒否することにした。

指導検事からは、弁護士になってもこの技術は役に立つし、拒否すれば成績評価で落第を付けざるを得なくなるかもしれないと説得された。だが、同期の中にも何人か拒否しようという仲間が現れる。困り切った指導検事は、取り調べは行わなくてもいいが、その分、たくさんの既済の公判記録を読み込ませるということで、検察修習そのものを拒否するわけではないという折衷案を提案してくれた。

この提案に従うことにし、良心的兵役拒否者のような立場で検察修習を終えた。久保利は、今でもこの検察官には感謝している。強引に取り調べ修習を強要されていたら、司法修習を断念していたと思うからだ。そうなっていたら、久保利が弁護士になることはなかった。