1971 (昭和46) 釧路村山牧場事件

久保利が弁護士になって1年目、はじめて取り組んだ事件は、国を相手とする裁判だった。自分の牧場と信じ、昭和19年から25年近く使ってきた土地(牧場)が、実は国有地で工業団地造成の対象地となっており、すでに牧柵の一部が国により壊されている。その状況に納得できず、所有権を巡る裁判となったのだ。

釧路村山牧場事件_資料1
【庶路村字大楽毛中戸川牧場 (500町歩で牛馬140頭。作家中戸川吉二が少年時代を過ごす。)】 北海道国有未開地処分法の施行により、釧路川・阿寒川沿いの各地に民間牧場が開設されていく。(釧路近代史28ページ)

国と闘う

長期間にわたる(明治大正から昭和46年まで)使用・占有状況を立証するためには、貸付、付与の書類を探し出し、牧場地の地形や牧柵を精査し、大勢の近隣牧場主の証言を集めなければならなかった。これは相当に体力のいる仕事である。そこで、若くて馬力のある久保利が指名されたのだ。

牧場の柵

既に、牧柵が重機で壊されている。すぐに、工事の差し止めの仮処分申請をしなければならない。猶予はなかった。久保利は、カメラとポラロイドと録音機など一切合切を担ぎ、着の身着のままで飛行機に飛び乗った。

釧路地域にはいわゆる公図(法務局が出している正式な地図)は存在しないという。しかし、依頼者が購入したとされる牧場の広さは120万坪。おまけに足が埋まる泥湿地である。途方にくれるような作業の連続ではあったが、これが事務所で最初に任された大きな仕事だ。負けるわけにはいかなかった。

裁判では正確な土地確定が必要なので、図面の捜索の為、身分を隠し道庁の資料保存庫に潜り込んだりもした。多数の証人を見つけ出し、全てを調べあげるのに5年近くの月日を費やしている。

その甲斐もあり、釧路地裁での一審判決は、久保利側の全面勝訴となった。久保利は裁判官への感謝で両手を机について平伏したという。しかしその時一旦、上に両手を挙げたらしく、国の代理人から『万歳しましたね』とからかわれている。

全くの新米ゆえに、とにかく足しげく釧路に通い、精細な年表を作成し、証人別の証言ノートを比較検討して、誰よりも釧路の馬産・牧畜の歴史と実態に詳しくなった。準備書面の表題から構成、細かい字句の用い方まで、森綜合法律事務所(当時所属した事務所)の合議で徹底的に鍛えられていった。久保利の基礎は、この事件で学んだことにある。

釧路村山牧場事件_資料2
【大楽毛家畜市場】 大楽毛家畜市場の年間取引が1,440頭・56,839円に達する。 昭和6年には3900頭が取引され、「全国第一位の大市場」と称された。(釧路近代史48ページ)

結局、札幌高裁で裁判官から和解を提案され、この地域の一部を、産炭地振興事業団が工場団地として売り出せるように、依頼主が協力することになる。
意地を賭けて国と戦った依頼者(牧場主)は、泣かんばかりに喜んだ。所有権を確保した土地からは、大量に良質の砂が取れたことから、工業団地造成の資材として、土地代の何倍もの収益が上がることとなった。