1968 (昭和43) 半年間の旅(アフリカ独立解放運動支援)
1967年秋、司法試験に現役合格した久保利は、司法修習を遅らせ、約半年間アフリカに行くことを決めた。
キューバ革命やチェ・ゲバラの南米解放闘争、ポルトガル移民地に対するアミルカル・カプラルのギニア・カボベルテ独立運動、アゴスティーニョ・ネトのアンゴラ解放闘争、SWAPOによるナミビア解放闘争、モンドラーネ博士のモザンピーク解放闘争など、世界中で反植民地運動が起きている時期だった。
この世界の大きなうねりは、ベトナム戦争と通底している。1968年、世界は革命的な雰囲気だった。アフリカの時代が来ると確信した久保利は、シベリア経由でヨーロッパを周り、アフリカに入る。目的は、アフリカ解放闘争支援だった。
父は「何を考えているんだ」と反対した。母は「面白そうだから行っておいで」と賛成した。久保利の家は、絶妙なバランスで久保利を支えてくれていた。
政権与党TANUの結成を祝い、タンザニア国旗を掲げて踊りねり歩く人々
旅は、想像通り、いやそれ以上に有意義で厳しいものだった。油断していたら移動もままならない。ありとあらゆる神経が研ぎ澄まされた時間だった。
バスでカイロのエチオピア大使館にビザをもらいにいく途中、それは起きた。日本と違い停留所にキチンと止まったりしない。満員鈴なりの客がバスにむらがりしがみついている状況なのだ。乗客が手を挙げると阿吽の呼吸でバスが徐行する。そこで飛び乗る。久保利もこの超満員のバスに飛び乗った。どうにか窓枠に手をかけ車体にぶらさがった。
バスがナイル川にかかる大きな橋を渡る。橋は太鼓橋だ。半円形で真ん中が盛り上がっている。橋の前半はのぼりだったからバスの速度も遅かった。しかし後半は下り坂だ。バスのスピードは一気に加速する。久保利は必死にバスにつかまっていたが、そのつかまっていた手が疲れてきた。次第に痺れも出て来た。これはヤバイと、窓から車内によじ登ろうとしたが、誰も入れてはくれない。
これくらいならどうにか着地できるであろうと考えた久保利は、飛び降りた。しかし思った以上にバスの速度は出ており、脚がついていかず、ころげ落ちるような形になった。後続車が何台もスピードを出して近づいて来る。急ブレーキの音と、急ハンドリングの情景が瞼に残る。
何とか受け身をとったつもりだったが、右の肩を強打し、左側の額をアスファルトにこすりつけてしまう。気がつくと、額に血が滲み、毛髪の一部が抜けていた。腕時計の金属のバンドがちぎれ、手首に刺さり、肘をすりむいて血だらけになっていた。
しかし、生きている。大丈夫だ。その夜は肩が痛くて痛くて仕方なかったが、一日休んでまた、エチオピアまでビザをもらいに行き、その日の夜には目的地のルクソールに向かった。アパルトヘイトに反対する解放闘争の人たちに会う前に、こんなところで怪我をしている場合ではない。
乗合バスでの過酷な体験が蘇る
生活、宗教、不満に感じていることなど、様々なことを話した
エチオピアとケニアの国境付近では内戦が繰り広げられていた。スーダン国境もエチオピア国境も、陸路では入出国できない状況である。ナイロビの国立公園で野生動物を見た帰り、ヒッチハイクでホテルに戻ることにしたのだが、車が思うようには停まってくれず、やむをえず野宿することにした。気持ちよく眠りに入れたのだが、暫くして地面が揺れるような唸り声に目が覚める。ライオンだ。すぐに飛び起きて焚火をはじめた。空き缶を叩いてカンカン音を出したり大きな声で歌ったりした。熊ならともかくライオンに効果があるのかどうかわからなかったが、何もせずしてガブリと食われてしまうのは嫌だったのだ。
総会屋と闘った時に、久保利はこの時のライオンの声を思い出した。ライオンの声以上の怖い声で怒鳴ってくる者はいない。本当にかけがえのない経験であった。
半年後、アフリカ・インドから戻った時、22キロ痩せて帰った。久保利の脳裏には、母の驚いた顔が、今も鮮明に残っている。
この後タイ、香港を経由して無事帰還した